21世紀になってから20年近く経った。
2001年の同時多発テロで幕を開け、対テロ・イラク戦争、北朝鮮情勢、大震災と原発事故、そして目下進行中のコロナ騒動……と、密度が高いことに遭遇しているし、これからもきっと想像しないような騒がしい未来が僕らを待っている。
小さな物語たる我々の日常生活で劇的に変わったのは何だろう?
言うまでもなく、ネットおよびスマートフォンの爆発的普及である。
これは、グーテンベルクの活版印刷以来のエポックメイキングであり、それはつまり、500年後にもこのことは歴史に刻まれることとなる。もちろん、スティーブ・ジョブズの名前と共に。
しかし、それ以外に何か激変があっただろうか?
文化面的なことに限っていえば、わたしは「べつに何もねーよ!」と断言できる。
なぜって、相も変わらず、旧世紀(20世紀)の視点やルールで動いているからだ。
そして人々、とくに文化人面している者の大半以上が、そのことに気づいてさえいない。
たとえば文学の場合。
小説、こと純文学というジャンルは、思考と感性を複合した最高級の芸術品と目されていた。
加えて、現代を描き、かつその先の想像力を言語という技工をもって描く予言者、というある種の役目があった。実際、需要があったのだ。
それゆえ、小説家は「先生」と当然のように呼ばれるようになったのである。
先生なんだから、当然「偉い」みたいな風潮にもなった。それはつまり、「俺様は何を書いてもOK!」みたいな感じで、今だったら炎上不可避なことを、偉い作家先生共は書き散らかしていた。
そしていつしか、純文学なんて誰も読まなくなった。必要とされなくなった。今の言葉でいう「オワコン」である。
芥川賞は毎回ニュースになるが、それはコマーシャル性を強調しているだけで、表面上の権威しかないし、そもそも誰も気にしない。
話が少しズレるが、たまーに「純文学をもっと読め!」と叫ぶ頭が足りない人がいる。
こういう人は多分、自分のことを教養主義者というか啓蒙主義者と勘違いしているのだろう。
これは恐ろしい。20世紀どころか、17世紀後半の啓蒙時代で思考が止まっているではないか!
もしそんな可哀相な人に出会ったら、「あ、ラノベとかあるんで、大丈夫っす!」と答えたら良いだろう。お互い、分かり会えないだろうけど。
みなさんもご存知のとおり、現代アートは意味不明なものです。
その意味不明なものから言葉という道具で謎解きをする、主に金持ちや美術マニアの知的ゲームとして機能している側面があります。
プラス、その作家の裏設定的なものを知らないといけない。
今やどこに行っても現代美術を扱う美術館やギャラリーはあるし、芸術祭みたいなことも散々やっている。これも一種の啓蒙運動だ。
しかし、先述の命題を内包している以上、現代アートとされるものが、我々大衆のモノになることは決して無い。
わたしは、このこと自体は別に悪いことではないと思う。
太古から、芸術なんてのは力ある連中のモノだ。
にもかかわらず、そのことを理解しないから(あるいは、したがらず)、アート=わたし達のモノ、という勘違いを起こしてしまう。
そんなアヘン的麻薬が広がったのも、こと日本においては、20世紀のそれに他ならない。
「先生」と同様、「ハイカルチャー」なんてものも死んだ今、現代アートはどこへ向かうのだろう?
作り手はいつの時代もいるから、心配ない。
むしろ供給過多にさえ陥っている(これは現代アートに限った話じゃないですね)。
だからと言うわけではないが、作り手は言論や評価なぞ気にせず、バンバン艦砲射撃を放つべきだ。
言葉より早く、つまり思考より早く、手を動かすのだ(これも現代アートに限った話じゃない)。
言葉で云々理論武装で表現するのは、それこそ20世紀的であり、薄ら寒い。
言葉を絶するオルガズム体験を得たいが為にアートに触れたいんだ!と、いち美術好きとしては思うゆえ、なんです。
ハイカルチャーの対義語だったサブカルチャーも、もはや存在意義が危うい。
というか、もっとも20世紀的なものだったのが、このサブカルチャーとされるものだ。
サブカルチャーといっても、色々な分類、見解がある。
たとえばマンガやアニメやポップスといったもの。
これはポップ・カルチャーとして君臨し、もはやハイカルもサブカルもない。
一方で、エロ・グロ・ナンセンス的なものや、よりマニア趣味な、純サブカルチャーもあった(変な言葉)。
中野サンプラザに代表されるような空気感、といえば良いのだろうか。あるいは、2000年代初頭の下北沢や秋葉原というか。
後者は、見事なまでに20世紀の産物である。
日本においては、1980年代から90年代に隆盛を極め、そして、死んでいった。
典型例は「鬼畜・悪趣味系」と称されるカルト的ムーブメントだ。
代表的なのは、青山正明と村崎百郎という2人の鬼才。
わたしが知る限り、青山正明は究極の快楽主義者だ。
ドラッグ、ロリコン、グロ、カルト、ロックからテクノ……と自分の興味あるまま実践に移し、それを広めていった。
その体験と知性に裏打ちされた文章は、決して難解ではなく、かといって軽々しくもない。非常に読みやすくて面白く、深みがある。人様に見せる文章のお手本だ。
一方、村崎百郎は、青山とタッグを組み、アナルセックスを実践したり、犬食を試みたり、脳で受信したという電波を文章化し、そして日夜ゴミ漁りに励んでは、その収穫品を紹介していった。
彼らの活動は、鬼畜系ピーク時に出た『危ない1号』という全4巻のムックにまとめられている。
ネットが今ほど普及していない時代、彼らが発信する情報は、いかに面白く感性と知性に富んだものとして受け入れられただろうか。
だが、時代の匂いに敏感過ぎたゆえか、90年代末には青山はその路線を降り、2001年には首吊り自殺をしてこの世を去る。
それから9年後の2010年に、村崎百郎は精神異常者に48箇所メッタ刺しにされて殺されてしまった。
両者の死は、まるでサブカルの死そのものを体現したかのようである。
100年前の今頃、つまり20世紀初頭は劇的なことが立て続けに起こった。
第一次世界大戦という未曾有の混乱を経験しながら、文化学術的には、相対性理論や精神分析学を引き金に大躍進。
フォービズム、キュビズム、ダダ、未来派、バウハウスといったものが新世紀を祝福するかのように、生まれていった。
大衆的にはラジオが普及し、文化芸術の大共有化、大量消費・大量生産の時代に突入。
1919年には、「世界一民主的な憲法」と謳われたヴァイマル憲法が施行。
そして、このヴァイマル憲法から生まれたナチと超絶カリスマの誕生、それと大恐慌までの10年間は、人類史上異常と言える文化学術の隆盛を迎えたのでありました。
べつにこの時代が良かった、と言いたいわけではない。
しかし歴史的に見て、世紀の変わり目には、なにか劇的なことが起こるものだ。
目下の新コロナは、第二次世界大戦後もっとも大きな世界的騒動と言えるが、1918年のスペイン風邪の方がヤバかったしな、と思って、さして気にならない(マスク着用や、国際線が飛ばなかったりと、不都合の方が多くてムカついてはいるが)。
カルチャー面でも、もはや感覚麻痺というか供給過多で、咀嚼のしようがない。
心底面白いと思えるブームも、わたしが知る限り、今は無い。わたしが知らないだけかもしれないけど。
ただ、別の視点に立つと、この「ムーブメントに乗ろう!」というのが20世紀的である。
「自分だけの世界で成立して、自分だけが楽しけりゃ良いじゃん!それをちょっとだけシェアして仲間に広めようかな」
ぐらいの気持ちで行った方が、楽しく生きていけるかもしれない。
そういう意味では、ポスト・サブカル、ポスト・オタク的かも。
関連記事