BLOG 2019.11.19

感覚過敏と鈍麻と再開発

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このごろ興味関心を寄せているテーマのひとつが、「感覚」だ。感覚、とひと言で表しても、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚と5つもあるし、超越的な感覚、いわゆるシックス・センスなんてのもある。

とはいっても、これらが定義されたのは古代ギリシアはアリストテレスの時代であって、もっと複雑な感覚を人間は有しているらしい。ただ生理学や神経学といった医学的観点からしても未だ整理がつかないことが多く、ここでは「5感+α」ってな感じで話を進めますね。

幼いときの僕は、感覚に対して異常に敏感だった。それも多くは、マイナスに作用していたのが辛かった。「不味い」と舌が反応したものは2度と口にしなかったし、部屋の空気は常に新鮮にしていたかったし、時計の秒針音が気になって常時ムカついていたし、エアコンのライトが気になって眠れなくて不眠症になったし、着ている服や身体が汚れていると感じると超絶不快だった。

それから十数年経った今、割と正反対な感覚を持つようになったな、というのをよく思うのですよ。食べ物の好き嫌いは相変わらずだが、あえて苦手なものに挑戦してムリヤリ好きになってみたり、クソうるさいノイズ・ミュージックを聴いては作ってみたり、てんかんを引き起こすようなストロボ・フラッシュ動画を永遠見ていたりする。かつて過剰に気になっていた感覚が麻痺してどうでもいいものになり、新たな感覚を得ようと時差のあるフィードバックを起こしているのかもしれない。

他人様からすればこういった変化は、「大人になったね」と映るでしょう。だけども、果たして本当にそうなのだろうか?

身体的成長による変化は、そりゃ多少ある。が、それがメインだとは、少なくとも僕には思えないのだ。むしろ、「退化」でないのか、とさえ思う時もある……

……いや、ここはあえて前向きに解釈してみよう。僕がこれまでたどっきた感覚遍歴を書くとこうなる。

「感覚過敏」→「感覚鈍麻」→「感覚再開発」→「感覚新領域」→∞…

これはまるで、肥沃な土地が耕されて豊穣をもたらし、やがて枯れ果て、時を経て再開発されビルディングが乱立する郊外都市のようではないですか!

「私とは他者である」と意味不明なことを書いたのは19世紀フランスの詩人アルチュール・ランボーであるが、僕ならこう言いたい。

――「私とは荒野と再開発を繰り返す郊外都市である」――

「感覚」についてもっと書きたいことがあるのだけども、針先ほど進んでないし、字面も埋まってきた。

たぶんシリーズ的に書いていくと思うので、気になったら読んでみてくださいね。

 

 ♪今日の一曲♪

Cornelius “Sensuous”