小学校低学年の頃、図工のクラス発表で、先生からこう言われた。
「この絵で工夫したことはなんですか?」
わたしは言葉に詰まった。言っている意味が、まるで分からなかった。
工夫って?
水彩絵の具を使って、適当に描き散らしただけだ。
そもそも、絵で表現していることを、なぜ言葉で説明しないといけないのか?
野暮である。
表現に対する言葉による過剰な自己言説への拒否感は、この頃に刷り込まれたのかもしれない。
ま、今となれば、あの先生の言っていた意図は、分からないでもない。
学校における図画工作は、言ってしまえば情操教育を絡めた、国語教育の延長だったのだ。
作文用紙に言葉を埋めるのではなく、絵の具を使って何かを表現し、それをまた言語化させる。
音楽もそうだ。
「この曲を聴いて(弾いて)感じたことはなんですか?」という謎の言語化への扇動。
「退屈だった」。そう一言、書き残した記憶がある。
最近、撮りためた写真の整理をしている。
基本、トリミングやモノクロに加工するだけなのだが、パッパッと直感的に出来るのが良い。
音楽もそうだが、写真も楽に直感・本能的に作成できるのが、わたしの身に合っている。
コンセプトやらなんやら小難しいことなんて、いらない。
一方で、自分のその好み、たとえば撮ったモチーフについて語りたくなる欲求も、多少はある。
たとえばわたしが頻繁にモチーフとする被写体は、電柱、夕焼け、錆、ジャンクション、道路、廊下、横断歩道、工場…といったものだ。
これは、自分のフェティシズムを切り取っていることに他ならない。
現像の際にも、モノクロへのこだわりも多少はある。
もっとベタ塗りにしたいとか、粗を強調したとか。
「工夫したのはなんですか?」と今問われたら、そう答えるだろう。
ただ、「なぜそうしたか?」と根源的な理由まで訊かれたら、「単純に自分の好みだから」としか言いようがない。
フェティシズムというのは強烈だ。
言葉で理解・判断できるものではない。
その性癖を、誰が何と言おうと徹底的に磨き上げることこそ、表現への発露につながるのである。
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