デビッド・リンチのドキュメンタリーに『アートライフ』(2018年)というのがある。
リンチといえば、『イレイザー・ヘッド』、『エレファント・マン』、『ブルーベルベット』といったカルト映画の巨匠というイメージが強い。
しかし彼は、映画という領域に留まらず、映画業以前から続けている美術制作や、音楽制作にも手を広げている。どれもクセのある、だけどもリンチにしか表現できない作品を生み出し続けており、現代のルネサンス・マンという呼び声も高い。「リンチみたいになれたらなあ」と、わたしも時たま思ったりする。
『アートライフ』というドキュメンタリーでは、リンチの映画製作の裏側を追う、なんてシーンは一切ない。
せいぜい、昔作った映画のキャプチャやシーンが映るぐらいで、リンチは終始、絵を描いているのだ。
常にタバコ(アメリカン・スピリッツ)をくわえながら、淡々と、だけども非常に聞き取りやすい喋り方で、人生を回想するリンチ。
それをコメンタリーにしながら、コツコツと無我夢中になって絵画制作に没頭するリンチを、カメラは追う。
ただ、それだけの映画だ。
「リンチ映画の製作秘話を知りたい」という人にとっては、肩透かしを食うかもしれない。
だけども、わたしにとってはかなり重要な意味、というかインパクトを与えてくれたドキュメンタリーだった。
一番印象的だったのは、絵画制作の休憩中、小鳥のオモチャでリンチが遊ぶシーンだ。
そのオモチャは、祭りの屋台にあるような粗末なプラスティック製なのだが、何かの仕掛けで一斉に鳴くようになっている。
その小鳥のオモチャたちが鳴いた。
するとリンチは、目を輝かせて両手を大きく叩くのだ。
何か楽しいオモチャと初めて出会った子供のような、無邪気な笑顔で。
この粗末なオモチャで感動するリンチの姿に、わたしは大きく胸を打たれた。
感動している人を見て、感動してしまう……わたしはこういうクセが強い。
これはおそらく、「感動とは罪悪感の解消」という見方があるからかもしれない。
「自分ではこの人みたいに涙を流したり、笑ったりできない。だからこそ、その解消として、その感動している人自身に感動する……」みたいな。
オモチャを見て感動するデビッド・リンチという人を見て、もう一つ発見があった。
こういう人は、富とか名誉以前に、「何かを作るため」に生まれてきたのだろう。
別にここまでの成功を収めていなくとも、子供のような目で何かを作っているはずだ。
デビッド・リンチという巨匠に限らず、そういう人は、表現の世界にはまだまだいる……と思いたいのだが、どうなのだろう?
わたしにはよく分からない。
ネット・スマホ・SNSの爆発的大普及の結果、人のエゴ、すなわち欲望が如実に現れて拡散してしまって、見たくない情報を知ることの方が多い。
その中に、「もっと有名になりたい!だから私を見て!!!」という名誉欲、いわゆる承認欲求のガス爆発は、もうどうしようもない。
「じゃあじゃあじゃあ、お前はどうなんだよ?」
と、問われたら、そりゃわたしだってそんな欲望の徒である。
むしろ人一倍欲望まみれで生きているし、その欲望を思う存分解消して、息絶えたいと願っている。
が、恐ろしいのは、わたしがいくら有名になって富と名声を得ても、それは解消されることのないものだ、ということが、脳内計算で証明されていることだ。
麻薬と一緒で、切りなくそんな欲望の従者となる……そんなの、本末転倒ではないか?
だからか、最近は、極力目的なく、物事を作るようにしている。
時たま、神か仏的なものが囁いて、無我の境地に行けることが幸せだ。
わたしはこれを、「子供の憧憬」と呼んでいる。
そういう感覚を抱くと、できたものが、「どんな評価を受けるかなんてどーでも良い心境」に至ったりもする。
傍から見れば、「そんなもん、オナニー作品じゃねーの?」と言われるかもしれない。
そう冷やかされたら、どうしよう?
胸を張って堂々と、「ああ、そうだが」と全肯定すべきだ。
実際、その通りでしょう。
芸事に励むなんて、もともと自己完結的・内向的・反社会的なものだ。
しかし、それ自体に罪はない。
子供が絵を描くことに夢中になっているのと同じだ。
で、そこで生まれたモノであるが、わたしは基本的にドンドン人様に発表するようにしている。
これはあくまで、処理の方法の一つであって、目的ではない。なので、先の承認欲求うんたらとは矛盾しない。
そこでたとえば、「いいね!」と言われる。「お前のこの曲を聴いて救われたよ!」と地球の裏側から褒められる。もちろん「Boo!」とも言われる。
が、正直、どれも根本的な喜怒哀楽を感じないというか、「そうですか、ありがとうございます!」「もっと精進します」ぐらいな気持ちで終ってしまう。
なぜって、作ることでもう完結しているのだから、どう受容されるかなんて、わたしが知ったことではないではないか。
受け手に渡った時、それはもはやわたしのモノではなく、その受け取った人のモノになるのだしね。
自己完結的に物事を作るのは基本的に自慰であり、それを人様に見せる。
となれば、もっと丸裸な姿勢であるべきだと個人的に思う。
もっと正直で、決してカッコつけないというか。
芸事の演者など、猿回しの猿、あるいは裸で踊ってなんぼだ。
かつて、ボブ・ディランはこう言った。
「自分は歌って踊れるピエロだ」――
超カッコ良かった1965年の記者会見で、ディランはそう自身を例えた。
その結果、ディランは今もどこかで歌い続けるクソカッコいい爺さんになっているのである。
……と、リンチから始まってディランまで話が飛んだが、クソ田舎に小屋でも買って、畑を肥やし牧畜でもしながら、音楽やったり、陶芸作っては絵でも描いたりしたいなあ、とぼんやり思う青乃でありました〜。