言葉を使った生業をしているせいか、言語については否応なく考えてしまう。
それはたとえば、母語である日本語や外国語学習など身近なことだったりもするし、ソシュールやチョムスキーといった言語学、そして「クレール語」や「言語のルーツ」を探るビッカートンのようなクソ面倒くさい理屈まで、文献をあさってはあれこれ考え、そして結局、答えには行き着かないモヤモヤした感覚に陥ったりするのだ。
その一方でわたしは、「言語的世界から、極力離れた感覚の中で生きていきたい」という強烈な思いを、常々抱いている。
人類が言葉なぞ必要としなかった世界…誤解を恐れず言えば、認知症や知的障害の患者が見ているような世界を、感じてみたい。
だからこそ、なんでも言葉で物事を分別しては理論武装する風潮には、違和感を覚えずにはいられないし、「言葉を明文化する」という今この文章を書いている行為自体にも、釈然としないものがある(メンドーな奴…)。
言語から距離を置く(あるいは逃避する)がために、わたしは音楽や美術といった、非言語的な要素が強い表現媒体に多く触れ、自分でも制作しているのかもしれない。
だから、小理屈が強調された作品には眉をひそめがち…というか超つまらなく感じてしまうので、そういう点には極力着眼しないように意識している。
……だがしかし!(重言)である。
いわゆる芸術作品には、文脈という要素が強く覇権を握っているのだ。
これは、諸刃の剣なのです。
一方では、作品の理解を手助けしてくれる。
たとえば、子供の落書きみたいな絵やグチャグチャな抽象画を見たとき。あるいは、イミフな現代音楽を聴いたとき。
それが「名作認定」されているものに初めて触れたとき、人は自分自身の美意識を疑うのだ。
「なぜ、こんなものが…?」と。
その判断自体は間違っていないし、むしろ正常なものだとわたしは思う。そしてそれを素直に受け入れる心が、変にカッコつけない善き生き方にも通ずる。
が、残念ながら人は言葉を持っている。
たとえば美術の場合、技法の刷新や、現状を後世に伝える情報媒体としての要素が、高く評価される。
それを言葉なしに感覚だけで掴める人は、極めて少ない。
「こういう歴史があって、これがあって、こうなって、こうなったから、これは高い評価を受けているのですよ」
と、知ったとき、人は初めて、「へぇ〜」となんとなく理解できるのだ。
そうやって理解できたら膝を打つ気分になって、とても気持ちが良い。
自分の美意識が高まって、頭が良くなったような気分にもなる。
だけども、である。
それは果たして、本質的な体験なのだろうか?
「文脈」という知的パズルをやっているに過ぎないのではないだろうか?
それって単に、言葉で自分の感覚をいじって偽っているだけなのでは?
そして何より、こういうことを考えてしまう時点で、言葉のトリックに引っかかっているだけでは…?
と、切りのないメビウスの輪状態になってしまうのです、少なくとも自分の場合は。
「こういうことを考えること自体が、無意識に好きなのでは?」
と、言われたりするが、そんなことはない。
考えるのなんて心底面倒なことだと思っているし、素直に、現実で起きていることは率直に受け入れたい。
……だけども、まあ、言葉の方が強くって、なかなか難しいのですよね。
冒頭に書いた通り、わたしは言語から遠く離れた、感覚に沿った世界を旅したい。
意味とか、存在意義とか、評価とか、そういうのは後回しにした、ある種の動物的で本能的で自然のまま。
寝たい時に寝て、起きたい時に起き、お腹が空いたら動物を食べる。
これと同じような感覚で、制作とも対峙したいな、と思う。
(「と思う」という時点で極度の言語化。それをそれをまたメタ認知している時点で言語化……以下無限ループ……)