BLOG 2021.08.08

アートはなぜ嫌われ、ムカつかれるのか?そしてどう楽しむか?

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最近は週1,2レベルで美術館やギャラリーを回るようになりました。

東京にはアート施設が山ほどあります。

そのため、展示の回転も早く、習慣的に足を運ばないと見逃してしまう企画が多いのです。

 

私がよく行くジャンルは、現代アート系のもの。

特に、六本木は集中しまくりで、初見の方は引くレベルでしょう。

小山登美夫ギャラリーやタカ・イシイギャラリー、シュウゴアーツといった国内最高峰の画廊が同じビルに集まった「complex665」があり、そこから徒歩1分以内には、ペロタン・トーキョーなど10近くの有名ギャラリーが集結するモール型の大型施設があります。

そこはまるで、ギャラリーのイオン!

 

ギャラリー最大の魅力は、まず「無料」で入れること。

次に最先端の作品を鑑賞でき、それを買うことができることです。

そもそもギャラリーというのは、アート作品を売る「セレクトショップ」ですからね。

数万円程度のものから数千万円超えまで様々で、価格表を眺めるのもまた楽しいです。

 

美術館だったら、やはり東京都現代美術館と森アートミュージアム。

国立新美術館やワタリウムも良い感じですね。

こんなにも現代アートの発表場に恵まれた都市は、そうそうありません。

 

が、しかしです。

見に来た人の9割は、「で、なにこれ?意味不明」という感想を持って、その場をあとにします。

なかには、「こんなのゴミじゃん!」と思う方もいるでしょう。

 

実はそれ、間違っていない素直な感想なのです。

と同時に、「もっと面白い見方があるのに……」と上から目線な印象も受けたりします。

現代アートというのは、リテラシーが求められる件

たとえば、クラシックのコンサートを観に行ったとしても、自分が知っている曲でないと、演奏の良し悪し以前に楽しめないでしょう。

能や歌舞伎もそうです。

もっと言えば、野球やサッカーも、ルールを知らないと、何をやっているのかまるでつかめません。

つまり、何かを鑑賞するには、こちらも「ルール」や「文脈」といったものが必要なのです。

これらをまとめて「リテラシー」と言います。

 

特に現代アートなんてのはニッチな世界ですから、そのリテラシー要素は極端に刷新、進化(あるいは退化)していきます。

また、現代のアートには、パズルのごとき「謎解き」の要素が強烈にレイヤー化されています。

それを読み解く能力が、受け手には求められているわけです。

 

ここで思い出して頂きたいのは、我々が受けてきた美術教育。

「芸術は自由です!あなたの感性を大切に!」

を、モットーとするギフテッド教育的なものは、アート鑑賞ではものすごく有害です。

「アート=美しいもの」、という公式がなぜか絶対化されてしまっています。

それが固定されるがゆえ、「(自分や世間にとって)美しくないもの=意味不明、つーか、ゴミじゃん!」という思考停止が生じてしまう。

自由どころか、不自由さに縛られているわけです。

いつの時代も、権威・マネーと癒着してきた現代アート

六本木ヒルズにある森美術館を見てください。

国内外の超有名企業が階を占める中、ほぼ最高階である53階に位置しています。

窓からは東京の高層ビル群が一望できるところで、私はこの美術館に来る度に、「アートというのは、権力と金の上に成り立ってるんやね」と妙に納得してしまいます。

 

歴史を振り返ってみてください。

ダ・ヴィンチもベラスケスもピカソもウォーホルも何でも、当時の現代アーティスト達はみんな、その時代のパワー&マネーに、うまく付き合ってきました。

「芸術家は自由だ!オレはどこにも属さないし、媚を売らない!」

というのは、ロマン主義や印象派が生んだ勘違いで幻想です。

 

ただその極端な権威も金も、歪を生んでしまっているのがイヤなところ。

多くの人にとってアートなんざクソどうでも良いものですから、「数百億円で落札!」なんてメディアで報じられると、作品の良し悪しより、その数字ですべてを判断してしまうのです。

「価格が高い=素晴らしい作品」

という間違った公式が、頭の中に刷り込まれてしまう。

その流れで、先のリテラシーも無く、現代美術館に行ってしまうと、「イミフー」となって終わってしまう。

真面目な人は、「自分には美意識が足りないんだろうか?」と自己嫌悪に陥る。

そして段々イヤになって、「くっだらねえ!(笑)」と小馬鹿にさえしてしまう。

 

また、個人的に一番ムカつくのが、「アート=高尚なモノ」という固定観念が蔓延していること。

たしかにバカ高い金で取引されていますし、知的な要素と作家の社会的地位向上で、そんな感じに見られるのは頷けます。

 

私はアートの需要に対し、「そんなカッコつけるもんじゃねえよ」と思う反面、「まあ、仕方ねえかな…」と二律背反した気持ちがあるのです。

というのは古来、多くの芸術品は、儀式用具や貴族の権威誇示として作られてきました。

やがてフランス革命中の1793年、「大衆にも芸術を開放しろ!」というコンセプトで開かれた、ルーブル美術館。

しかしそこでも、権力と金は連綿と受け継がれています。

世界一金銭的価値がある『モナ・リザ』は、警備員を常駐した特殊防弾ガラスの中、ちっちゃく展示されています。それを囲む多くの観客たち。その光景自体がインスタレーション作品みたいで、『モナ・リザ』そのものより面白かったりします(サムネイルは、私が実際に撮ったやつ)。

ここがいいんじゃない!を極める

私は、有名な作品だろうが、道端に落ちているゴミだろうが、「グッと来たもの」すべてに対しアートと呼んでいます。

というか、「アート」なんざスカした言葉が安っぽく思えるほどで、代わりの言葉が欲しいです。

 

現在、ギャラリーや美術館で「アート」とされているものが、100年後どう扱われているかは知りません。

「数百年後にも残る芸術作品を、自分は作っている!」

と、現代のアーティスト様はよく仰っしゃりますが、私にはそんなスケベ心、一切理解できません。

評価や価値なんてものは、時代の裁量によります。

でも、そんな評価軸で右往左往するのも、なにか虚しいじゃないですか。

 

自分が、グッと来て、ピンと来て、キュンと来たもの。

そうするとやがて、「愛」が芽生えます。

たとえ、「捨てられた吸い殻」に対してでも、です。

そこを素直に好定(肯定ではない)するのが、正直な生き方にさえ通じます。

 

私にとってアートとは、心底、「死ぬまでの暇つぶし」の手段であり、目的です。

「暇つぶし」といっても、大真面目なもの。

それは水や空気のごとく生きるために不可欠なものであり、アートなる「おもちゃ」があるおかげで救われて来たし、退屈で死なずに今日まで生きて来られました(まあ、逆に呪われて来たこともありましたが)

 

夏の夕暮れ時、ビールを飲みながら、作品集をめくったり、拾ってきたサビ金具をいじるのは、この上ない楽しみです。

そんなゆるい感じで、皆さんもアートなるおもちゃを探して、人生を楽しんでみては如何でしょうか。

べつに美術館やギャラリーだけに、アートがあるわけではありませんしね。