BLOG 2020.06.15

「記録された」モノと「記録される」モノ

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人間が「記録」を行うようになったのはいつからだろう?

文字の歴史を紐解けば、紀元前7世紀ごろには原文字が使われていたという。ヒエログリフ、シュメール文字、クレタ文字といった世界史でお馴染みのやつは、それから数千年後、紀元前3000年あたりの話だ。

文字だけでもこのような長いわけだから、音だけによる口伝や音楽の類は深海のごとく歴史がある。

 

もちろん、言語や音だけが記録の道具ではない。

洞窟壁画は3,4万年前の後期旧石器時代に描かれたとされるし、もっと言えば、生物の生成、すなわち生殖行為を通したDNAとその個体の継承そのものが記録だ。

人類や生物だけの話だけでもない。自然現象、たとえば地形の形成、時空を超えれば、惑星の発生と消滅、ひいては宇宙そのものが記録の結果である。

つまり我々は、記録の上に立って今を生きている。言われてみれば当たり前のことだが、意外と気づかないことだったりする。

記録は「された」のか「される」のか?

一方、「記録」というのは曖昧性と中間性があって、それについてわたしは音楽を通してよく考える。

たとえば、我々が普段接する音楽とは、基本的に「記録されたモノ」だ。

レコード、という言葉が示す通り、録音されたモノを何らかのデバイスを通して聞いている。

 

その一方、生演奏は「記録される」モノだ…と言いたいのだが、疑問点がある。

曲を演奏する際、それは事前に身体に血肉化させ(記録化させ)、それをリアルタイムで音を出し、観客はそれを受け取る。

身体というレコードプレイヤーをもって、記録された音を発しているのだ。

これはインプロヴィゼーション(即興)に凝ったどんな演奏であっても、手癖が無意識に出たりと、その埋め込まれた記録からは逃れられない。

 

では、「記録されるモノ」とは一体何なのだろうか?

それは「行為」そのものである。なにかの楽器を習得したいと練習を重ねる。何度も何度も、同じフレーズを弾いていく。それを身体に記録させるのだ。

そして上手く弾けた瞬間、それは「記録されるモノ」であると同時に「記録されたモノ」にもなる。相反するようなことが、同時に存在する、奇妙な現象が起こるのだ。量子力学で言う、二重性みたいなのに近いかもしれない。

リアルタイム演奏とDJにおけるパフォーマンス

DJパフォーマンスやリミックスというのは、それが顕著に現れる。

「記録された」レコードを、繋げたりミックスして(記録されて)、べつのモノに変えていく(記録される)。

 

また、ルーパーというエフェクターを使ったリアルタイム演奏も、二重性が高い。

一発撮りの生演奏、それを記録していき、受け手はその記録されたモノを見聞きするのだ。

 

最近のわたしは、このルーパーを使ったリアルタイム性に注目し、実践している。

単純に、画面越しでポチポチ打ち込んでは微調整していく所謂DTMの主要に飽きただけなのだが、それとは別に、打ち込みにはないグルーヴ感を得られることを発見した。

ギターやベースといった生楽器を使うため、腕を上げていかねばならないが、その行為がまたスポーツ的で楽しいのだ。

記録する/されていくのを、身体が喜んでいる感じがする。

ということで、近く、その実践をいろんな場で提示していきたい。