2020.05.10

音楽を「聞く」から「聴く」へ〜言葉から遠く離れて

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「音楽に触れる、とは一体なんだろう」とよく考える。

そして考えれば考えるほど悶々とし、「まあどうでも良いからなんか聴こう」となって曲をかけるが、また「でもなんで…?」とループに陥る。

我ながら、無為なことをしているな、と思う。と同時に、「自分は聴き手として二流だな…」とも痛感する。

 

ご存知のとおり、音楽というのは基本的に非言語的なものである。そして意外と知られていないが、物理現象でもある。つまり、「モノ」だ。だが目に見えないがゆえ、抽象性が高い。抽象的なものは理解し難い。そのため我々は「意味」、すなわち言葉でその隙間を埋めようとするのである。

 

けれども。「そんなことを追い求めるのは無駄なんだよね、こと音楽に関しては」というのが、20年以上音楽と深く接してきた私の結論である。

それと同時に、「言葉とかどうでもいいから、感覚を研ぎ澄ませよ!」ということが導かれる。

 

「感覚」や「感性」といったものを洗練させるのは、言葉を扱う以上に難しい。フリー・ジャズやクラシックなど、難度が高いが名作とされるものに触れた時、多くの人はまず「?」が浮かび上がり、やがてマグロ状態となって、そこから流れる音というモノを適当に扱ってしまう。それは、言葉を知らないわけではない。単にその人の感覚が開発されていないだけだ。

それでもまだ「理解」したいからと、言葉を探ってしまい、評論やらどうでもいい思想書などに手を出してしまうのである。

偉そうに書いているけど、この私もそんな一人だから、言葉による「理解」への欲求心は痛いほど分かる。だが、その「理解への欲求」そのものが、勘違いを生んでいることもまた確かなのだ。

 

「感じなさい!あなたの感覚を信じて!」

に代表されるゆとり教育のキャッチコピーであるが、その意味では非常に正しい。しかしそれは、極度な性善説というかギフテッド教育的であって、9割9部の平凡な才しかない子どもからすれば、なかなか酷な示し方でもある。

その反動なのか、ゆとり教育を受けた私たちの世代は、極度に言葉を武器にする人が多いように見受けられる。SNS時代の流れといったらそれまでだけど、コンセプト至上主義というか、「ここがこの作品の見どころなんすよ!」みたいな野暮な解説をして、受け手を興醒めさせる。音楽も美術も映画も小説も舞台もなんでも、そんなきらいがある。

 

閑話休題。

結局、感覚・感性を洗練させるにはどうしたら良いか?

答えは簡単。

そのモノと一対一で徹底して向き合う。以上。

音楽の場合、「ながら聞き」なんかしてはいけない。

目を閉じて、身体ごと爆音に没入するのだ。

本当ならスピーカーで流して全身で味わってもらいたいけど、ヘッドホンかイヤホンでも、もちろん可。

それを重ねるごとに、あなたの音楽への感覚は「聞く」から「聴く」に変わる。

この差は大きいし、それは一生の財産になるでしょう。

 

だからこのページもさっさと閉じ、PCやスマホは投げ捨て、作品そのものと接しましょう。

良い音楽ライフを!

 

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音楽屋/文章屋/快楽探究家。美術系も復活。総合コンテンツ制作会社代表。人生という長い暇つぶしの中、いかに退屈しないで楽しんで生きるかを考えてます。
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