言葉のない世界、というのをよく考える。普段言葉とされるもの、すなわち意味を有する記号は、すべて音に帰し電波を発する世界であるが、それがなかったとしたら?
つまりこんな世界だ。
……人々の口から出るのは、「あうー」とか「おおー」といった喃語(なんご)だけが響く、赤ん坊みたいなのがいるだけの世界。文章にもそれは反映されるので、もちろん意思の疎通なんてものはありえない。それはつまり、すべてが一方通行で混沌と混乱で満ちあふれ、白痴的で、そして享楽的な世界……
なんでこんなことを夢想するか?
理由は3つ。
1.言語(=知)への根源的疑問
2.考えること(=言葉を使うこと)が異様に苦痛になる時があるから
3.言語を無くすと超感覚が身につくという希望的観測
1については、もっと皆さん自覚した方が良いんじゃないですかね。
万人が賢い頭脳を持っていれば、こんな話はしないで済む。ただ悲しいことに人間とは、「勘違い」を起こす頭が足りない生き物なのであります。なので、無闇矢鱈に言葉(=知識)を得れば良いものではない。なにより、「物事を知れば知るほど、人は不幸になる」というのが、どこかの統計的研究であったりする。「知らぬが仏」ということわざが昔からありますしね。
フランス革命を引き起こす書を記した天才・ジャン=ジャック・ルソーは、その処女論文『学問芸術論』の中でこう言っている。
文明の進歩は人間性の堕落をもたらす。人間とは、原始の自然状態にあって本来自由で、余分な知識を持つことがなかった。だから、超幸福だったじゃんか!
その通りである。もし私のこの文章やルソーの意見に、生理的な嫌悪感や違和感を抱く方がおられるならば、それは西洋近代文明が撒き散らした「教養コンプレックス」なるものに感染している。最悪死に至る病なので、早めの治療をおすすめします。
2について……は、「考えることが苦痛」とは何か?ということ自体が超絶苦痛なのでスキップ。要するに、なにも考えず猫のごとく、陽だまりの芝生でポカポカと寝ていたいんや……
で、3。
感覚の話ですね。やはり、感動体験とか絶頂体験といったものに、言葉なんていらないじゃないですか。せめて「あぁ……」とか「おぉ……」と感嘆に浸る、あるいは「ああっ!」とか「おおっ!」などと絶叫するしかない。どちらも母音を基盤とした喃語に注目して欲しい。
かぐや姫は、「あなうれし」と、喜びてゐたり。『竹取物語』
「ああ!めっちゃ嬉しい!」とかぐや姫が喜んでいる様子であるが、それを表現する第一声は「あな」なわけで、その喜びをグタグタと理屈こねられて語られたら、白けてしまいますよね。
で、この「喃語しか発せないような感覚」をもっと身につけたい、と思う日々なのです、私の場合……そのためにも「言葉なんて不要だ」という論。
夏の終り、工場街、ドブ川の土手沿い、セーラー服を染め上げる夕焼け、それらを眺めながら生ぬるいビールを飲む自分――こんな情景で得られた己の感覚は、本来言い表せない。
にもかかわらず、だっ!
「言葉」というやつが図々しくも頭に浮かんで来て、口から出ようとするのである。
これって結構な苦痛なんですよ。
だから私は決めた。
言葉をあえて抑圧し、「じーん……」という例のあの感覚、エナジーを身体全体に行き渡らせることに集中しようと。
それで最後に、ここまで読んでくださった方には謝らなければいけないのですが、その境地までいくのに、なんと「言葉が必要である」という信じられない矛盾的事実があるのです……このあたりについては、また詳しく!