ウィーン生活は相変わらず慣れません。
きっと、慣れずに滞在を終えるのでしょう。
基本ロンリーな生活を送っているのですが、さすがに「誰かと合わんといかん」と思い、近場のアイリッシュ・パブに通っています。
それもほぼ毎日。
アイリッシュ・パブなので、共通語は英語で済みます。
ドイツ語に不慣れな自分からしたら、ちょっと安心。
ま、そこで話される英語も早すぎてついていけないんですけどね。
でもビールにまかせて、とにかく話しかけてます。
言語というのはつくづく「武器」であると痛感します。
剣や盾と同じです。
攻撃もできるし、守備にも使える。
しかしこれを持ってないと、あっという間にやられてしまいます。
これは外国語だけでなく、母語でも同じことが言えますね。
日本では「英語!英語!」とバカのひとつ覚えに叫ばれてますが、私はこれに疑問を覚えます。
英語は世界の共通語である……ように見えますが、実はそうではありません。
それは表向きの話。
ここウィーンでも、ドイツ語しか話せない人はかなりいます。
レストランのメニュー表も、基本ドイツ語です。
日本のように「英語用」なんて便利なもの、目にしたことありません。
ハンガリーやチェコといった東欧に行ったら、その数はもっと多いでしょう。
もちろん、英語の利便性は大いに感じます。
ただ、「英語が使えれば世界中どこでも使える!」と考えるのは極めて安直なもので、逆に世界のことを知らない田舎者丸出しの意識と言わざるを得ません。
だから私はウィーンの中心でこう叫びたい。
「英語だけがすべてだと思うなよ!」
パブなんかで誰かと会って話をすると、大抵こう聞かれます。
「やあ、どこから来たの?」
日本だ、と答えるとほとんどの人は笑顔で握手してきます。
なかには「コンニチハ」と挨拶する人も。
この時、嬉しいと思うと同時に、複雑な心境にもなります。
「これが中国人や韓国人だったら対応は変わっていたのだろうか?」と。
だとした場合、私は日本人というある種のブランドで判断されたことになります。
それは良くも悪くも、ナショナリズムに起因する認識です。
と同時に、「自分には日本人という背景しか判断されない」ということも意味します。
だから、そこから会話などを経て、「私自身」というのを相手に伝えねばならない。
ここでもやはり言語力が左右するわけです。
ウィーンは思いの外、アジア系が少ないです。
コロナの影響でしょうか。
9割白人、たまに黒人、そして稀にアジア人。
日本人は今の所、見たことがありません。
なので、歩いていると、視線をやや感じなくもない。
ですがこれって、日本にいる外国人を見た時と同じ反応なんですね。
外国人がいたらやはり目がゆくじゃないですか。
それの逆バージョンを、私は今体験しているということです。
「そういえばオレ、外国人なんだな」と日に何度も思います。
言語とは?人種とは?民族とは?国家とは?人間とは?……
そんな答えのない問いを、より身近に考える滞在になりそうです。