BLOG 2019.07.03

語ること(ステートメント)

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2019年5月3日から6月15日(延長して28日)まで個展をした。その展示にステートメントを置かなかったので、今ここで語ってみる。

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緩やかなつながり

僕の興味は必ずしも一つではなく、一つに絞ることも出来ない。まるでベン図の重なりのように、僕の興味は重なりを持ったり、または関係がなかったりする。

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絵を描くこと、工作をすること、美術について、または美術ではないことについて、イメージについて、そして語ることについて。これらはまるで作品制作に関係がありそうな興味だが、同時に恋について、友達について、街についてなどの興味も緩やかにつながっている。

バラエティ番組をお菓子を食べながら見ている僕と、(格好をつけて)美術書を読んでいる僕は緩やかにつながっている。

SNSで女優やアイドルの画像を見ている僕も、作品制作をしている僕も緩やかにつながっている。

語ることについて

作品について語るとき、僕はまるで作品について語っているのだが、まるでそのように振る舞っているだけかもしれない。

その時の思いつきで話を進めたり、本来言いたいこととは異なる事を語っていたり、本来言いたいことがその都度変わっていたりする。それは聞き手によって変わってきたりもしている。

作品はそれ自体でベン図の一つの丸であり、その丸について語るには、言葉という別の丸を描くことになるのだが、その丸を描く欲求は作品を作る欲求とは違うので差が生じる。

しかし、作品について正確に語る言葉として「偽」であるその言葉は、僕が語る興味としては「偽」ではないし、作品について緩やかに語る言葉としても「偽」ではない。かといって「真」でもないのだけれど。

まず、僕自身が様々な興味を緩やかに持っていて、それを言葉にするときにも、作品にするときにも、興味はそこに緩やかに関わったり関わらなかったりしている。聞き手や鑑賞者もまた、彼ら自身の興味に重なる部分を発見し、その興味の視点からその話や作品を観察するのだ。

僕は作品と緩やかにつながっており、それを緩やかに言葉で語り、鑑賞者は緩やかにそれらを受け取ることを、僕は「真」とも「偽」とも言い切れない。

作品について語ることとして、「千円札裁判」を想像する。作家・赤瀬川原平は千円札の模型を作成し、通貨及証券模造取締法違反で裁判にかけられたのだが、その意見陳述で作品について語るのだが、彼は語ることについてこのように話している。

まず、千円札の模型を作った作者の意図を簡単に説明したいと思うのですが、それを説明する前に最初に必要なことは「意図」というものは、言葉によってそれを完全に説明する事は出来ないということです。

~中略~

つまりこうやって私の思っている事を言葉で話すという事は、私の頭の中の認識、或いは意図をことばというもので包んで裁判官の頭の中に送り届け、裁判官はその言葉という包み紙を解いてそれを頭の中にいれるというわけですが、それぞれの包み方とほどき方が違うために中味が多少変形してしまうのです。

作品について

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1. 僕は頭の先から足の先までイラストレーションで出来ている。
僕がイラストレーションを描き始めた動機は模倣だった。イラストレーションに嫌気が差したのは中身のない模倣だったからで、中味があるように見えた(現代)美術に飛びついたが、その動機も模倣だった。

2. 僕は男性で、女性に対して憧れを持っている。SNSなどで写真を見ると、こうなりたいと思う。しかし本当に性転換をしたいわけではなく、模倣をしたいだけなのだと思う。なれない存在だから強く憧れているのだと思う。乱暴に。

3. 絵を描く動機の一つに女性の模倣があり、その憧れる写真の模倣がある。風景や景観を観察すると、僕が生活をしている都市空間は、多数の人為的なものの集合体であることがわかる。僕がその景観を模倣して再現するならば、それらの要素を発見して描き出すしかない。彼女らの写真は、彼女らの服装やメイクや仕草等の要素によって作られ、その風景も同様である。

4. 何かを模倣するということは、それを観察し、それらしいこととは何かを再現する必要がある。しかし、再現したものはそれらしいかもしれないが、本質はそれではなく、まるで3Dモデルで作られたオブジェのように感じる。

5. ものを見るときに僕たちはどうしたって表層しか見ることが出来ない。僕たちはモノを、風景を「表層のイメージ」として見ている。ザラザラとした表面を見て、ザラザラしているようだと受け取っても、触るまでザラザラしているかどうかはわからない。目で触れる事は出来ないので、目で見えるのは表層だけなのだ。目で見ているだけだと、まるで3Dで作られたゲームの街のようだ。

6. アンリ・ベルクソンは唯物論も観念論も極端として、以下のように語った。

あなたの目前にある事物、あなたが見、手で触れている事物は、ただあなたの精神のうちに、そしてあなたの精神にとってのみ存在しているとか、~中略~ある一つの精神にとってのみ存在しているのだと言ったとすれば、その人は吃驚仰天するに違いない。しかし、その一方で、その対象物はあなたが認知しているのとは全く違ったもので、あなたの目に映る色彩も持たず、あなたの手が感じる感触も持っていないと告げるとすれば、やはり同じようにこの人物を仰天させることになるだろう。

そして、彼の立場をこのように語った。

常識からすれば、対象物はそれ自体で実在しており、さらには、それ自体において、われわれがそれを認知しているとおりの絵のようなものである。すなわち、それは一個のイメージであり、それ自体で実在している一個のイメージなのである。

なるほど。しかし、僕にとっては彼もまた極端で、彼はイメージを受け取るプロセス、シナプスもイメージだと言っている。

求心性の神経網は、 [それ自体が ]イメージである。脳もまた一個のイメージである。感覚神経によって運ばれ、脳内に伝播されるさまざまな刺激、それらも同様にイメージである。

僕はここで吃驚仰天した。


7. 僕にとって、見たものが結果的に表層の(認知している絵のような)イメージだったことだと気がつくことが何より自然な感覚としてあり、実際に対象物を結果的な平坦なイメージにしてしまう術をポケットの中に毎日持っているのだ。そして、そのイメージをSNSで日々目にしているのだ。そして、そのイメージの表層を更に模倣し、その要素を再現している。

以上が、僕がこの場で語る事ができる作品についての言葉である。しかし、これらもきっと「偽」でもある。

作品の持つレイヤー

作られたものが作品となるとき、いくつかのレイヤーがあるように思う。

作られたモノのイメージ、作られたモノの内容、それを作った動機など様々な要素が重なり合っていて、それぞれ重なり具合が浅かったり深かったりする。

今の僕は、作られたモノの表層のイメージをないがしろにしないという事にしている。なぜなら僕は表層の模倣しか出来ないのだから。

展示のステートメントがなかったこと

こうして作られている作品に一つの中心を明示することは、場合によっては絶対的な「真」として受け取られてしまうかもしれない。作品のレイヤーの内容や動機を語ったところで、そこに存在する作られたモノの表層のイメージが語ること、そのベン図の丸に近づくことはないし、そこで新たな物語を語って指標としても、僕の作品の場合、その物語は表層のイメージと同じレイヤーとして語られるようである。なので、本展ではテキストを置かないことにすることで、逆に作品の入り口となるレイヤーを示すことにした。

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美術をやってます。絵を描いてます。たまに音楽を作ってます。
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