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2024.11.23

ピースシリーズと性暴力

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ピースシリーズと呼んでいる私の絵に対して彫刻家の丸山太郎くんが「童貞っぽいよね」と言ったことから、わたしたちの「童貞とはなにか」についての考察が始まりました。今回この場を借りて、私の中にもある男性性とその暴力性について、性依存症を鏡として見つめ直したいと思います。性依存症は性的な行動をコントロールできず、痴漢や盗撮などの性犯罪につながる現代病としての心の病です。

性依存症というテーマは極端かもしれませんが、私自身アセクシュアルやノンセクシャルではなく、恋愛対象が女性であり、現代の性依存症の人々と同じ時代や社会で男性として生まれ育った点で、切り離せない問題だと考えています。程度は異なるものの、性依存症者たちの考えの片鱗を私自身も持っているという自覚があります。絵の作品群は、この自覚から生まれる自身の男性性への嫌悪と、その男性性を受け入れるためのものでもあります。私にとって童貞性は、男性性そのものと密接に関わっていると思っています。

性依存症者はほとんどが男性である。彼らは日常的に心の奥底に性嗜好のファンタジーを生涯保ち続けて消えることはない。
『性依存症の治療』榎本稔

心の奥底の性嗜好のファンタジーは、AVなどのポルノはもちろん、日常に散りばめられた小さな性差別によって培われているように感じます。以前、胸を強調されたキャラクターのポスターが公共空間に掲示され問題となり、主にインターネット上で議論が交わされました。この問題の核心には、プライベートな場とパブリックな場の混同があったと考えています。プライベートな場での自由さとパブリックな場での配慮を混同し、パブリックな場で無配慮(自由)になることの危うさが問題の本質です。表現の自由が議論に持ち出される際も、その自由がパブリックな場で無配慮に行使されていないかを検討する必要があります。このような「自由」を主張できること自体が、社会的な強者による特権的な振る舞いともいえると思います。このように、プライベートな欲望をパブリックな場にも持ち込んでしまう暴力性が日常に溢れており、それは広告だけでなくあらゆるメディアに付随しています。これらは対象となる女性たちにとって事実と異なり、許容できないものであっても、私たちは社会の中でそれらを当然のように受け入れています。近年、そうした「常識」が実はファンタジーに過ぎなかったことが、次々と明らかになっています。

ラファエル・リオジエは『男性性の探求』の中で、物語としてのファンタジー『眠れる森の美女』に内包された性差別的ファンタジーを指摘しています。

眠れる森の美女の寓話は問題の核心に迫っている。この物語は、か弱く、繊細で、受動的な女性のイメージを与えている。彼女は眠りに落ちながら、それと知らずに白馬の王子を待っている。(中略)暗に示唆されているのは、未来のお姫様は、彼女に熱いまなざしを向ける男性と出会うまでは、搾取される資本でしかなかったことである。
『男性性の探求』ラファエル・リオジエ

 

安田美弥子さんは『性依存症と性の発達』の中で、性依存症のセラピーのグループミーティングで出会った患者の印象をいくつか挙げています。その中で「罪悪感の薄さ」「女性蔑視」「共感性の欠如」などを指摘し、またドメスティック・バイオレンスの特徴との類似性も述べています。

女性が恐ろしさですくんでしまったのを受け入れられている、喜んでいると認知しているようであった。
『性依存症と性の発達』安田美弥子(性依存症の治療より)

犯行がばれないように「騒ぎ立てそうもない、おとなしそうな女性」を選んでいるようだった。「女は3歩下がって当然」、「男はハーレムのように何人もの女性を持つのが理想」などと話した例もあった。「女性は女中みたいな存在、世話をする存在」ともいう。「女性は私の性欲に応じて当然である」という意識がほの見える発言もあったし、「女性に人格があるとは思わなかった」と語った例には非常に驚かされた。
『性依存症と性の発達』安田美弥子(性依存症の治療より)

これらの記述から、女性蔑視や、それらの行為を当然視する罪悪感の薄さが見て取れます。そして、それはどこか古い女性像の写しのようであり、東京五輪組織委員会の森喜朗会長による女性軽視発言を想起させます。彼が性依存症であったわけでも、性犯罪を犯したわけでもないにもかかわらずです。

これらの女性軽視発言や、プライベートとパブリックの混同に「共感性の欠如」を感じます。「『ネットで見たポルノの映像のように女性は感じている』と考えているようだった(『性依存症と性の発達』安田美弥子)」という認識のズレによる性暴力は枚挙にいとまがありません。AVやポルノなどのファンタジーと現実の混同は顕著な例ですが、『眠れる森の美女』のような些細な性差別もまた、ステレオタイプとして日常に組み込まれています。その性差別が日常化している社会で自由を享受している人々もまた、共感性を欠いているのかもしれません。

私が童貞で女性をステレオタイプとしてしか認識できなかった頃に発した性差別的な発言を、今さら撤回することはできません。だからこそ、性依存症者と自分を全く異なる次元の人間として他人事にすることもできないのです。これからも自身の男性性を注意深く見つめ直し、パブリックな場で自由を行使していないかどうか自問自答していく必要を感じています。

 


 

ラファエル・リオジエの『男性性の探求』では、男性の性暴力や性差別の背景を丁寧に分析しています。

榎本稔編著の『性依存症の治療』では、性依存症の症例や当事者たちの言葉、また現場で働く女性スタッフたちの声なども収められています。

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美術をやってます。絵を描いてます。たまに音楽を作ってます。
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