ジャン=ポール・サルトルは『存在と無』において、こんな事を書きました。
――もっとも猥褻な肉体(つまりエロいこと)とは、縛られた女の肉体である。相手の肉体が、すなわち自由を奪われた肉体だからだ。」――(筆者要約)
サルトル『存在と無』第三部
まあ簡単に言うと、自由を奪われる状況とは、相手の意思を封印させることです。
それゆえ緊縛の根源には、「自身と他者の関係性」なるものが存在します。
前提として、緊縛される者は、緊縛する者に対してすべてを委ねなければなりません。それゆえ、肉体=意思の忠誠と信頼関係といったものが、意識的/無意識的に表出します。それは拒絶の叫びかもしれないし、緊縛されている状況への恍惚的なものかもしれない。いずれにせよ、それをどう解釈するか決定できるのは緊縛する者以外いないのです。
『さよなら絶望先生』オープニング
また、サルトルは女と言ってますが、べつに男でも同じです。
バカ自称フェミニストとか、文化・歴史的文脈を分からない人が緊縛に対してよく「なんて残酷なことをするんだ!理解できない!」と目を点にしてキレますが、それはあくまで第三者的視点で見てるからそんなバカなことを言っちゃうのです。
緊縛とは基本的に1対1でしか成立し得ない、極めて内密的かつ美的な世界。
一方で、確かにそこには暴力性や残虐性も有します。
だからこそ強烈な官能性が生まれるわけですが、それを感じ取れるかどうかは鑑賞者の感性と知性に依る、としか言いようがありません……
ただ私はサルトルと違って、緊縛を極上のエロティシズムとは見ません。
では、なにか?
「ノスタルジック」×「終局的状況」
この掛け合わせ、これこそが最高級のエロティズムと私は信じます。
なぜかというと、この掛け算の答えは「極めて形而上学的(超越的)なもの」なんですね。
つまり、あり得ない。
現実的に考えて、観念でしか成立しない式。
だから、超絶エロい!
となるのですが…………「コイツは一体何を言ってんだ?」となってると思うので、説明します。
まず「ノスタルジック」。
切なさ、と言い換えても良いです。
この切なさは、過ぎ去ってしまった、もう二度と後戻りできない過去の自分とその状況への「強烈な感傷」なんですね。
たとえば男性の場合、いつまで経っても女子高生に目を引かれてしまいます。
なぜか?
色気出した女のフェロモンをミツバチの如く嗅いで追ってしまうとか、破廉恥極まりない学校制服を着ているからとか、まあそんなのもあるのですが、それ以上に、見る男性の内面に根源的理由があります。
それは、「中高時代、制服セックスできなかったことへの無意識な表象現象ゆえ」です。
統計が無いので分かりませんが、学生時代、制服セックスできた層は少数派ではないでしょうか(ちなみに相模ゴム工業によると、男性の初体験の平均が、20.3歳という統計があります)。
「オレは高校時代ヤッたけど、今でも女子高生見ると目で追っちゃうよ」とドヤる人もいますが、これはちょっと文脈が違います。
そんな人は表面でしか女子高生を見てないわけであって、内面の発露が希薄です。
男子校出身の人とは立場も何もかも違うし、共学でも、生ゴミを見るような目で避けられ「キモい」と言われ続けた3年間を送ってきたような人とは、意味が違うのです。
ノスタルジックといえば、「幼馴染」なるものがあります。
そもそも「幼馴染」とは、いつ頃からの付き合いと定義すべきか?
人に依るのでしょうが、幼稚園に入る前の公園友達だったり、小学校からだったり……
ただ、小学校高学年はもう難しい。中学生は論外。なぜなら、もう思春期に入ってしまうから。
では、どうして思春期突入=幼馴染と見なさないか?
有り体に言えば、やはりセックスの問題になってくると思うんですよね。
すなわち、幼馴染という枠にあった「同性性」が消滅し、異性(=セックスの対象)として見てしまう。
損得勘定抜きで、公園で一緒に遊ぶことなど、もう無理なのです…………
2人がお互い好きだったら、それはもう幸せでしょう。
しかし、そんなの稀有な話。
ここで男女差が出てきて、女子は適応性が高く世界が広がるが、男子は鬱屈期に入る傾向があるというか最悪ダークサイドに堕ちます。
やる事といったら、恨みつらみで力いっぱいコスりまくる手淫、もちろんネタはその女子に似てる画像 or 動画、果てたあとは自殺を考えるほど強烈な虚無感と自己嫌悪、そして夕飯時に母親から「あんた最近ティッシュ使いすぎよ」という言葉に「うっせえんだよ、ババアッ!」とキレることしかできない15の夜……
事件は唐突に起きるもので。
もし、その女子が他の男子と付き合っているのを知ったら?
もう彼はダメです。The endです。
ダーク・ジェダイ、仕舞いにはシスの暗黒卿にまで堕ちます。
そして(超一方的な)復讐の徒と化すのです……
学生モノが多いように、幼馴染を題材としたフィクションも多いです。
私の知る限り、『伊勢物語』という西暦900年頃(10世紀)に成立した歌物には、すでに題材となっています。
『源氏物語』にも源氏の子たる夕霧と、雲居の雁との話があって、どう読んでもラノベです。
近代では樋口一葉の『たけくらべ』とかあって、中々切ないですね。
あと三島由紀夫の『豊饒の海 第一巻・春の雪』。これも哀愁というか、やるせない話です。
現代でも、ゲーム(特にエロゲ)、アニメ、マンガもドラマもそうで、幼馴染系にはノスタルジックというか切なさはセットになっています。
なぜか?
これもやはり、セックスの問題と言わざるを得ない。
先述した三島の『春の雪』では、身分違いの幼馴染主人公2人が一線を超えてしまうシーンがあります。それがもう、美しくも切ない。
――「清顕は聡子の裾をひらき、友禅の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の乱れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聡子の腿を遠く窺わせた……」
『豊饒の海 第一巻・春の雪』
難しすぎる表現で、現代の感覚では悪文とさえ言っていい。まあ簡単に言うと、着物で覆われたヒロインの下半身をまさぐってまさぐって、やっと現れた太ももが見えた…………という濡れ場です。
まあ濡れ場といえど、まさぐりまさぐってようやく到達するヒロインの生身の下半身、これはそれまでの2人の関係性とタブーを犯してしまったことのメタファーと見て良いわけです。
幼馴染とはいえ、身分違いの禁断の行為であるのは間違いなく、それがこの物語の言いようの無い、やるせなさのトリガーとなります。
一葉の『たけくらべ』も、「性」が根底にありますね…………切ない。
まあそんなのもあって、ノスタルジックというのはおぼろげでありながら、心の底に沈殿しては強烈にかき乱されるものなんです。
次に「終局的状況」について。
高橋しん『最終兵器彼女』の最終巻の何十頁も続くセックスシーンを読んでください!今すぐに!
…………と、言って終わりたいのですが、一応書きましょう。
たとえば革命や戦争、自然災害といった大事が起こると、人(こと男性)はなにを欲するか?
己の種の拡散です。
すなわち、性欲の発露。
「もう死んでしまうかもしれない。だからせめて自分の遺伝子だけでも残しておきたい……今すぐに!」
だから、戦争や災害が起きると、必ず強姦が横行するのです。
それは現実に起こりうる、男性の性(さが)なわけで、残酷でかなり暗くなってしまう悲しい話ですが、私がここで言いたい「終局的状況」とは違います。
なんというかそれって、やはりメタフィジカルでフィクショナルなものですからね。
まあ簡単にいうと、いわゆる「セカイ系」のニュアンスに近い。だからさっき『最終兵器彼女』を挙げました。
セカイ系というのは基本的に、「君と僕」×「世界の終わり」の掛け合わせで構成されています。
先のノスタルジック云々が前者で、後者は今書いている終局的状況が当てはまるかもしれません。
違いといえば、終局的状況がもっと内面的というか脳内で完結してるものであり、妄想的と言っても良い。
そんな自分だけの脳内における「終局的=世界の終わり的」状況と、先述のノスタルジック、そこから導出されるエロティシズム…………
(…………書いてて思ったのですが、これ、人に伝わらないのでは?文章屋として失格じゃん!そう文章、すなわち言葉では…………)
だが、しかし!(重複表現)
その「言葉」にこそに鍵があるのでは?
ということで最後は、言葉のお話。
基本的に私たちは言葉を通じて物事を考え、意思疎通を行います。
つまり、「観念」というモヤモヤした抽象的なものを、「言葉」という具体的なものに変換している。
で、最近思うのが、「言葉ほどリビドー(欲動)を刺激するものは無いのでは?」ということです。
たとえば、「梅干し」、「レモン」といった言葉を見聞きするだけで、唾液が出たり、酸っぱく感じたりしますね。
イメージとエフェクトと経験によるフィードバック現象、いわゆる条件反射です。
これを言葉を使って、もっとも応用しているのは何か?
官能小説に他なりません。正確に言うと、官能表現。以下例文。
結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている
川端康成『雪国』
一体彼女は、自分の顔は見ているだろうが、背中がこんなに美しいことを知っているだろうか?
谷崎潤一郎『痴人の愛』
「さあ、あなたの体は黄金の箱。ぼくの銀のキイを差し入れてみましょう」
赤松光夫『尼僧の寝室』
もっと知りたい人は、『官能小説用語表現辞典』なる素晴らしい本があるので読んでみてください。
いずれにせよ、言葉の力は強烈です。
視覚や聴覚、あるいは実際のソレより強いかもしれない。
だからか、人間は結局コンピュータと同じで、プログラミングされた言語でコントロールされるんだな、というデカルト的思考にもなったりします。
最後に。
『眼球譚』というエログロ小説を1928年に書いたジョルジュ・バタイユという思想家・作家がいます(小説も書いた点がサルトルと同じ)。
で、彼はこんなことを言いました。
「快楽は、我々がいつも通りの人間である限り、究極の快楽には永遠に手が届かない。けれども誰もが、この快楽の彼方の領域を思い浮かべることができる。そしてこれこそがエロティズムである。」
バタイユ『エロティシズム』
…………なんか、私が書きたかったのは、結局このあたりに突き当たるんですね。
だから、もっと考察が必要だなと思っております。
エロティズムを探求することは、非常に身近な問題というか、頭や感性の良い運動になりますよ。
如何せん、性ってすべての根源なんですからね、フロイト先生。
アイキャッチ画像『さよなら絶望先生』オープニング
……ってかマジ見た方が良いですよ、このオープニング。どんなお芸術より素晴らしい。