BLOG 2024.01.08

「文化的な最低限の生活」って一体なんだよ!

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「文化的」なる言葉は、私の仲間内ではある種の慣用句というか、まあよく使われます。

プラスで使われることもあるし、マイナスな意味合いの時もあります。

いや、どちらかと言えば、茶化す意味合いが強いかな……

 

たとえば、私は横浜と東京で育ちました。

人によっては、もうそれだけで「文化的な育ち方」だそうです。

えっ、なんでや、そんなの沢山いるだろ…………?

まあ確かに、辺鄙(へんぴ)な地方よりはいろんなものがありますし、いわゆる「文化的なものごと」、たとえば美術館やコンサートホールは山ほどあります。

ジュンク堂や紀伊国屋に代表される大型書店もたくさんある。

教育面では有名校が星の数ほどあり、そして最高学府たる東京大学がド真ん中にあります。

……たしかに、これほど文化的なものが身近にある街は、世界的に見ても存在しないのでは?

ただ、そこ(ここでは東京圏)で育つ=文化的とは、一概には言えません。

文化的な施設が身近といえ、興味が無い人もいるし、みんながみんな塾に行って中学受験などをする訳ではありません。

あくまで傾向とイメージの問題になります。

日本国憲法第二十五条の呪い

そもそも、「文化的」って何なんでしょう?

現代の我々が抱いている「文化的」とは、日本国憲法第二十五条に起因すると、私は見ます。

日本国憲法第二十五条

  1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

(太字筆者)

……しかし思うのですが、「文化的な最低限度の生活」って一体なんですか?

極めて曖昧な表現です。

ただこの第二十五条、かなり重要な条文で、これがあるから生存権の行使と付与、たとえば生活保護や社会保障が存在します。

ヴァイマル憲法という下地があって左翼系学者が起案したとはいえ、1年ちょっと前まで世界大戦をしていた国の新憲法の条文とはとても思えません。

 

だけども、です。

先述の「文化的な最低限度の生活」というのは、どう定義するのでしょうか。

私は中学生の時にこの条文を知りましたが、それ以来この定義化不可能といっていい呪文に首をかしげ、この文章を書いている今も首が斜めになっております。

「文化的」ってそもそも何?

辞書にあるとこうあります。

ぶんか‐てき〔ブンクワ‐〕【文化的】

[形動]

文化に関係のあるさま。「—な施設」

近代文化の要求にあうさま。「健康で—な生活」

出典:デジタル大辞泉(小学館)

……うーん、実に曖昧。
つまり、「文化と接すること」となるわけですが、ではその「文化」って?

ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】の解説

人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の—」「東西の—の交流」

1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。

 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「—住宅」

出典:デジタル大辞泉(小学館)

 

……まあ、言わんとすることは分かるけど……って感じですかね。

私の独断と偏見に基づく、憲法第二十五条における「文化的」を具体例で出してみましょう。

そもそもこの条文で想定されている「文化的」とは、ヴァイマル憲法を下地にしていることから、「ドイツ教養主義的なもの」を根源としているのです。

ドイツ教養主義とは、ビルドゥングス・ロマン的な世界観、すなわちドイツ語の古典を基礎としながら、自己形成を行っていくという考えです。

旧制高校でドイツ語が重視されていたのは、このあたりに起因します。

ドイツ語原典で文学や音楽やオペラに触れ、これプラスおフランスの華美なお芸術に触れる……それこそ文化的ざんす。

 

で、今の時代、そんなことをしている日本人は、果たしてどれぐらいいるのでしょうね?

さらに面倒くさいのは「文化的な最低限度の生活」という点。

……最低限度ってどれぐらい?

起案した森戸辰男と鈴木義雄は、いずれも旧制高校から東京帝大に進んだ典型的なエリートです。

なので、彼らのいう「文化的」と「最低限の生活」とは、当然上記のような西洋的かつハイソサエティな生活感覚だったのは言うまでもありません(特に森戸は2度ドイツ留学をしています)。

両人とも左翼系学者・政治家として活動していましたが、それでも大衆の感覚とはあまりにかけ離れていたのは、間違いありません。

 

現代において、そんな憲法第二十五条にある「文化的な最低限度の生活」なんてすること、普通はできません。

ここで「それは低賃金で、生活保護はじめ保障額が少ないからだ!」と言う人がいますが、私はその意見にまったく与しません。

だって今ほど、お金をかけずにいわゆる文化的な生活を享受できる時代は無いからです。

ネットを通して映画も音楽もなんでも鑑賞できるし、本や新聞が読みたければ図書館に行けば良い。最近の図書館って、カフェとかもあってキレイなんですよね。

勉強素材も、いくらでもネットに転がっています。参考書が必要ならメルカリとかで安く買えば良い。

例えば交友飲みなど、どうしてもお金を使わねばならない時は?

たしかに物価が極度に上がってしまい、これには私も参っております。

ただそれはもう誰もが同じなわけで、貯金するか空いた時間を副業して小遣いを稼ぐしかありません。

生活保護受給者でも、アルバイトなどの副業は可能です(ただし、ちゃんと申告しないと不正受給になります)。

コロナとネットの影響もあって、自宅で出来る仕事は無数にありますしね。

でも結局、みんな文化的な生活なんてしないんでしょ

「しない」、というより「分からない」と言うべきでしょうか。

どんなにお金があっても、その人に素養や習慣がなければ、結局文化的な生活なんて送れません。

アートの理解がなければ美術館なんて退屈な所だし、クラシック音楽聴きこんでないとコンサートホールは眠る所だし……あとは感性の問題……

 

さっきネットの話がありましたが、ネットというのは皮肉なもので、先述のように使えることもあれば、意味なく依存しては不毛な時間を作ってしまうことがあります。

今はネット、というより、スマホというべきでしょうか。

起きてスマホ、ご飯中もスマホ、歩きながらもスマホ、電車でもスマホ、帰ってもスマホ、お風呂でもスマホ、お布団でもスマホ、スマホ、スマホ……スマホが人生……!

……いやでも、ある種文化的なことをしている人もいるかもしれません。

たとえば、

eiπ=-1

というオイラーが発見した「世界一美しい数式」について調べているかもしれないし、ギリシア美術を勉強しているかもしれないし、バッハの対位法について分析して…………いや、無いか!

 

最後に言わせてもらうと、「文化的な人間」というのは一定数存在しています。

日本のような超先進国でも、欧米でも、アフリカや南米の部族にも。

そんな人間になるには、まあやはり家庭など環境が大きいのは否定できません。

そして教育。

しかし、結局は自分の問題なのです。

スマホでクソどうでも良いのを見聞きしたり愚痴ったりしてる暇があったら、日々自分が思う「文化的な」ことに触れるべきなのです。

「いや、自分、頭悪いから……」とか言い訳しないでね。

それこそ、ビルドゥング(Bildung)=自己形成なわけですから。

 

アイキャッチ「1946年、枢密院での帝国憲法改正会議」可決の時。中央はもちろん昭和天皇。