言葉を絶する瞬間――そんなこと、誰しも経験したことがあるかと思います。
腹ペコ状態の過食、性的絶頂、目標達成、ドラッグ過剰摂取……などなど。
私の場合は、例えばサウナにギリギリまで入って、水風呂に浸かった瞬間です。キリストでもブッダでも、あらゆる神々が見えてくるほど。
すべては「無我」の境地に達しているのであり、言葉が不要とされる瞬間なのです。
しかし不幸にもヒトは言葉を持つ生き物です。
彼らは言語を獲得して以来、目に見える「モノ」や体感する「現象」、あるいは超越的なことにすら名前をつけてきました。
それも一方的に!
こんな高圧的な生き物、地球上にはこの人類しかいません。
その証左に、言語を基本必要とされない領域でも、我々は言葉に依存してしまいます。
その代表例が、音楽と美術。
「感想」の類だったらまだ分かります。「あそこが良かったね」とか「どこそこはもうちょいだった」とか。
が、それに解決的意味というか答え探しをしてしまう傾向があり、それにカタルシスを得ようとする傾向が現代人には実に多く見られるのです。
解釈病の代表みたいな私だったら、ひとつの作品に何時間も喋り続けてしまうほど。
そうなってしまうと、人の意見ばかりに左右されて、結局は自分なりの楽しみ方が出来ないマグロ状態になってしまうのです。
現代アート、ことコンセプチュアル・アート。その裏には、100%「言葉」が詰め込まれています。
たとえば、20世紀を代表するドイツ人作家ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)。
一見、単なる背広と布、と変な塊。
それらの素材は、フェルトと動物の脂肪です。
なぜそんなのを使っているのか?
それには、まずボイスの前体験を知らなければなりません。
第2次世界大戦中、ドイツ空軍として戦闘中だったボイスの飛行機が墜落。
瀕死だったボイスを救ったのが、現地遊牧民のタタール人。
で、そのタタール人が行った治療が、「動物の脂肪を塗ってフェルトにくるむ」、というものでした。
ボイスにとっては強烈な体験であり、死から生還させてくれたアイテム、それがこのフェルトと脂肪なのです。
…と、ここまで知って、ようやっと、「ああ、だからこれらを素材にしているのね」と分かります。
そこからまた各作品の意図を探らなければならないのですが。
戦後、作家となったボイスは、まあこんな感じの「取説必読系」ワークスを作りまくります。
デュシャンの流れがようやく花開いた時代で、いわゆる「意味不明系アート」が量産されるのです。
つまり、「この作品を見るには、最低限これぐらいの知識が必要なんすよね!」という、言葉のウェイトが極端になってしまった。
知的ゲーム、パズルとしては面白いのです。その一方、美術鑑賞が今まで以上に高尚だインテリだ、つーかイミフすぎてバカバカしい、と思われるようになってしまった。
それへの反動してウォーホルをはじめとするポップ・アートが花開いていくわけですが……ウォーホルほど頭を使った戦後作家は他にいないというぐらい、彼の作品は実は超コンセプチュアルだったりします……長くなるので、次の機会に。
ボイスの時代から5,60年、デュシャンにいたっては100年を過ぎているわけです。
それを未だに「現代アートだ」と言い続ける我々は、どうも停滞し過ぎるではないか?
そんなことをよく思います。
もっと厳しい言い方をしましょう。
「現代アートなんて、べつにそれほど求められてない。だから意味不明でも良いんだ。その方がインテリチックなんだ」
そんな作り手の手抜き的奢りさえ、甲斐見えてしまう瞬間が多々あります。
受け手も受け手です。
小難しいことを考えたいなら哲学書でも読めば良い、そうではなく芸術作品に触れたいのならばドストエフスキーでも読めば良い。あるいは実学探究で量子力学や分子生物学についての本やドキュメンタリーを見てみる。その方が100万倍、人生に有益です。
私は思うのですが、頭を使うよりまず身体、すなわち目や耳、あるいは皮膚感覚といった5感を鍛えることがすべてにつながるのではないか?
ためしに雑貨屋でもリサイクルショップでもどこでも良いですから、安くても自分の中で「コレ、いいな!」と思えるものがあったらすぐ入手してみてください。
家では毎日視線にはいり、掴みやすいところに置いてあげましょう。
そして最低1年は、手元におきましょう。
すると当たり前ですが、1年前とでは、まるでそのモノに対する視線が変わっていることに気づくはずです。
それでも手元に置いておきたい!、というならば、そのモノに対して「愛」が芽生えたわけで、もう一生モノになってるはずです。
べつに高価な骨董品じゃなくてもこうやって、目を鍛えることができます。
目や感覚を鍛えれば、ペテンな美術品に騙されなくなります。
そして、よりよいもっと面白い世界を発見できるわけです。
「見るのは解説書じゃない!作品そのものだ!」
すべては受け手側たる自分の視点にかかっているわけで、私も日々修練だと思いながらそう呟きつつ、作品と真摯に向き合いたいと思う日々でございます。