ものすごく良い作品による、ものすごく良い鑑賞体験によって、私は胃の下のあたりを殴られた。森山美桜の『「こんなんになっちゃったよ」そんなこといわないで』である。

『「こんなんになっちゃったよ」そんなこといわないで』展示風景
この作品は、性暴力を考える展示・ワークショップなどのイベント「わたしのからだ」で展示されていた。
以前、駅をつなぐ地下道の地下歩行空間でも展示されていたが、そのときはパフォーマンスを見ることができなかったので、初めて作品として見ることができた。(地下歩行空間での展示作品)
ダンボールで作られた小屋があり、窓から覗くとゲームをしていた人(作家)が寝たふりをする。部屋の内壁には一面、いたずら書きのようなドローイングが描かれている。端的に述べると、そういう作品である。しかし、このすべてが丁寧に仕組まれている。
まず外観を眺めた後、窓から中を覗く。私は作家と交友があり、完全な他人ではないからこその少しの気恥ずかしさを感じ、少しの照れを含みながら覗くことになった。ちょっとした親しみのような視線を1割程度含ませながら覗いた私(ひどい鑑賞者である)は作家と目が合い、寝たふりという拒絶を受ける。
作家のパフォーマンスは、ゲームをこっそりやるけど親に寝るように言われるという、なんとなく誰もが共有できる普遍的なストーリーを入り口としている。だからこそパフォーマーの立場に自分を重ねやすく、そこが作品の入り口となる。と同時に、覗き込む鑑賞者が、寝ているかどうかを確認する親の立場に立っている。そして作家に拒絶されることで、かつて私たちも感じていた親の鬱陶しい側面を鑑賞者自身に突きつけてくる。
森山は親の立場になるように仕掛ける作品をこれまでも制作してきた。北の美大展に出展していた作品「兄が言っていた口の利けない人」(2025)などでは、高齢者の親の様子を確認しに家に来る娘を表しており、鑑賞者は家の中の親のほうからその様子を見るような構成になっている。また、アートスペースの「空間」で展示したインスタレーション「いつの間にか体は痩せる」(2025)では、実家を模した場の天井に実家での様子を描いた映像を鏡写しに投影し、鑑賞者がパラレルに実家の出来事を体験することになる。このように、演劇的な作品空間の中において鑑賞者に役割を与えることで、鑑賞者も出来事の当事者にするという構造を持っている。
本作はパフォーマンスであることで、その演劇的な構造と当事者性がより強く感じられた。他の映像作品では鑑賞者の視点はカメラを通すことでドラマの撮影者のような、その場には存在しない幽霊のような視点になる。それゆえに鑑賞者に与えられる役割に気が付きづらかったり、客観性を持ちながら鑑賞することになる。それに対して、このパフォーマンスでは作家の拒絶する視線と寝たふりという行動によって、子を監視する親の立場を強引に自覚させる。
照れながら1割ほどヘラヘラしていた私は、作家の攻撃的な視線と行動によって一瞬で作品の意図を目の前に提示され、それまでの自分の態度を振り返ることになるのだ。
以前地下歩行空間で展示していたときには、パフォーマンスは見られなかったが、部屋とプロジェクターによる映像などは観ることができた。今回、部屋の造形はそのときから大きく変わっている。前回は部屋の入り口を模した扉大の隙間から中を見ることができたが、今回は少し高い位置にある窓に変更されている。これによって、覗き見るまで中に何があるのか隠されている。だからこそ予想ができずにそわそわした態度で覗いたのだが、そのような緊張感が効果的に働いている。また、高いところから覗く構成になっていることで、上下の力関係と鑑賞者の立場を無意識に自覚させられる。覗き込んだときに私の全身は見えず、見られる側の作家は逃げる場所がない。これによって、親が子を心配する以上の不穏な関係を描き出している。
地下歩行空間で展示していた際には、人感センサーとプロジェクターのギミックによって、鑑賞者が注意するべき点が散漫になってしまう印象を覚えたが、今回はシンプルに作品の構造と作家のパフォーマンスで親子関係をクリティカルに表現しており、自然に鑑賞者を演劇の当事者として取り込む。鬱陶しい親密さとその拒絶、過保護の力関係を、窓の構成とパフォーマンスによって示している。
部屋の内壁は落書きのようなドローイングが一面に描かれており、外と限られた子どものプライベート空間を際立たせている。外と地続きな扉ではなく覗き窓にすることで、外と中を明確に分けており、そのプライベート空間の対比に気が付く仕掛けとして、描かれているドローイングが機能している。
この作品はパブリックな場でのみ展示されており、明らかに公私の関係を利用している。開かれた場で鑑賞者は完全に油断しており、突然プライベートな空間を覗き見てしまう。だからこそ私は覗く前に居心地の悪さを感じて、どこか罪悪感を持ちながら覗く。監視する立場を体験しながら、その罪悪感を通してその暴力性を自覚することになる。
そして、公共空間であるからこそ、親と子のプライベートな関係自体がメタファーとなり、社会の中での力関係や過剰な干渉へと拡大解釈することができるようになる。そういった抽象化ができるのは、仕掛けられているあらゆる要素が関係を表すために向けられており、鑑賞者が自然にこの構造そのものに気が付いて考えるための導線になっているからだろう。
ヘラヘラしながら作品に干渉することで加害性を突きつけられた私は居た堪れなくなった。しかし逃げて隠れるわけにも、なかったことにするわけにもいかず、慌てて「加害性があることだけが私ではないのだ」という言い訳を長ったらしく書くことになった。覗き込んだときに見た作家の視線には、この構造に対する反骨精神が宿っていて、私の加害性へのカウンターパンチが一番しんどい胃の下のあたりにクリティカルヒットしたのである。