人はみんなカッコつける生き物です。
音楽系、たとえばバンドだったらその音以上に、見た目が重要だったりします。ボーカルのルックスで、それが売れるか売れないか左右するのはよくあること。
オーケストラでもそうです。演者も客もビシッとした服を身に付けたり、ソロのバイオリニストは胸元が見えんばかりの派手なドレスを着ています。歌手もそうですね。
一方、美術系。意外なことに、この世界は音楽以上にカッコつけの世界なのです。作者ではなく、どう自作を見せるか、つまり映えさせるか。作り手はこのあたり、徹底的に練ってどう作品を作り、展示するか決めていきます。
あと基本、技術系だからなのか、学問にコンプレックスを抱いている層をどうも多く見受ける。特に哲学とか、哲学とか、哲学とか…………で、小難しいというか、誰も見向きもしない意味不明な作品が出来上がってしまうのです。
カッコつけ、というのはいつの時代もあったもので。
かつて、江戸に上って来た田舎侍がいました。
街を歩いていると、どうも視線を感じる。
彼は江戸上りのため、呉服屋でおろしたばかりの派手な着物を羽織っていました。
「やっぱ俺みたいなのが着てると、江戸でも映えちまうんだな!」
もちろんそれは彼の勘違いであって、商店街を通り過ぎた時、どこかのオヤジがこう呟きました。
「ありゃあ、どっから来たカッペだい?」
江戸美学に、「粋と野暮」という概念があります。
上記の田舎侍は、江戸上りするからってあまりにカッコつけた格好をしているから当然野暮。
対して粋とは、単純にカッコつけないというか、ありのままを通すというか、でも全体的にあか抜けている。
総じて言うと、「カッコつけないのが、カッコいい」という一見矛盾した様です。
まあ、最近の日本人は服装に関しては洗練されてますから、都心に出ても恥じないというか、ファストファッションを上手く着こなすというか、変に気取らない格好をしている人が多いです。
が、それはあくまで表面上の話であって、内面的にはどうなのでしょう?
「スターバックスをうちの県にも作って!なぜなら東京にもあるから!オサレだから!」
と言って開店させた某県がありましたが、ネット上では嘲笑の的でした。
実際、地方民ほどスタバへ行く率は高いように思えます。
ちなみに、うちの父方の実家はクソ田舎にあります。
で、若い親戚が「ちょっと買い物行ってくる」と言って数十分後、戻って来た片手にはなぜかスタバの透明ケースに甘々なコーヒー、否、ホイップ沢山のコーヒー牛乳!
私は思わず失笑して、「虫歯にならんといいな!」と皮肉を言ってしまいました。
と、嘲笑っているあなた、そしてこの記事を書いている私!
日本人、少なくとも明治以降に生まれた日本人は、すべて田舎モンと解釈すべきです。
というのも明治維新以降、急激な西洋化が起こり、それゆえ「今までの俺たちってダサくね?」という価値観が広がります。
「今時ちょんまげとかwww」みたいな感じだったのでしょう。
西洋化は上からの改革、すなわち国家主導のものでした。
それを象徴するのが、明治16年に出来た鹿鳴館(ろくめいかん)です。
ここでは、有力外国人(交官や国賓など)の社交場として機能しており、文化交流だけでなく政治の場にもなりますした。
それに感化されまくった日本人代表は、西洋かぶれも良いところ、「俺たちこそ、西洋人だ!」という勘違いを起こす仕末。
「脱亜入欧」という割に「和魂洋才」という奇形的な様相を呈した西洋化政策は、極端なスピードで拡大し、それはやがて日清戦争、日露戦争、大東亜共栄圏思想、そして泥沼の十五年戦争へと繋がってゆくのです…………
そしてボロボロに負けた我ら日本人は、進駐軍によって、アメリカ化されます。それも、徹底的に。
恐ろしいことに日本はそれを全面的に受け入れるんですね。
ちょっと前までは「鬼畜米英」と叫んで、竹槍一本で敵を倒そうとしていたのに!
とまあ、こうして大日本帝國は、アメリカ合衆国51番目の州「JAPAN」となったのでした。
ここで明治の話に戻します。
私はこの時代を見ていつも想うのが、夏目漱石なのです。
慶応3年(1867年)に生まれ、大正5年(1916年)没するその人生って、まるまる明治を生きた人なんですね。
だから、明治の代表的日本人を挙げろ、と問われたら、一目散に漱石を出します。
府立一中(現・都立日比谷高校)、大学予備門(のち旧制一高、現・東大教養学部)、帝国大学(現・東京大学)という、当時本当に一握りしか入れなかった学校へ進み、どれも優秀な成績で卒業します。
もちろん、最も出来た科目は、英語。
それゆえ、各地の学校で英語教師をし、のち「ロンドン大学に行って英語教育について研究せよ」という政府令により、イギリスまで行きます。(そして極度な鬱病になって帰ってくる)
ともかく、あの時代、最上級の知識人であり、英語力だったら国内指折りのものだったというのは、言うまでもありません。
漱石は、超人嫌いで厭世的な人です。
他人、というか親戚レベルですら嫌っていたし、家庭でも癇癪起こしと暴力暴言は日常茶飯事だった(まあこれには彼の出自と幼少期の問題もあるのですが)。
エヴァでいうATフィールド全開ですね。
もっとも、芥川龍之介や寺田寅彦はじめ、多くの弟子を輩出したのもあるんですが(ただし木曜しか会わない)。
で、まあそんな漱石ですから、国家や時代の流れに対しても反抗的と言うか懐疑的でした。
政府から、「文学博士号をやる」と言われても拒否するし、「高等遊民」なる言葉を作って、大学を出た当時ごく一握りのエリートだが何もしない生活を送るキャラを書いたり。
そしてなにより、その国家主導の流れに対して、今までの日本が持っていた精神や考え方みたいなのが、この極端な西洋化に飲み込まれてしまうのでは、と危惧していた。
「果たして、これで良いのだろうか……?」
彼の作品を読んだり写真を見たりすると、そんな声が聞こえて来ます。
有り体に言えば、三島由紀夫につながる「文化保守論系作家特有の厭世観」と言えばそうなんですけどね。
「西洋人の真似をしても、結局カッコつけだろ。日本なんて所詮は極東の島国に過ぎない訳で、俺たちはそこでのうのうと暮らす田舎モンに過ぎないんだ」
みたいな。
そんなモヤモヤに対して、漱石はこんな造語を作ります。
「則天去私」
「そくてんきょし」と読み、「天に則っとり、私を去さる」と訓読みします。
簡単にいうと、「エゴ(我)を捨て、天に身をゆだねること」といった感じ。
漱石が晩年(と言っても49歳ごろ)に到達した、宗教的人生観です。
『こゝろ』や、未完の『明暗』には、このあたりが明確なテーマになってますね。
「まあ、もうなんか分からんけど、国家より上にある天に身をまかしてみるか」
もはやこれって、諦観の境地というか、無我とか禅の話になり勉強が必要です。
ちなみに、漱石作品では、1番売れている『こゝろ」も去ることながら、『それから』が私は好きです。
漱石作品は明治、大正のものですが、森鴎外などと比べると圧倒的に読みやすいんですよ。
テーマも現代に通用しますからね。
というより普遍的なので、100年後も1000年後も読まれるのだろうな、と思ったりします。