2022.10.04

百水(フンデルトヴァッサー)と豊和と風呂敷

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私が生まれてからずっと住んでいた家(実家)は、異質な家です。そのことは、物心ついた頃からわかっていました。だって、毎日3000人の観光客が玄関の前で大騒ぎしてるし、廊下の床が凸凹してるし、家の中には真っ直ぐな線が存在していません。子供とはいえ、異質な性質に気づかない人なんていないでしょう。しかし家の凄さを確実に意識するようになったのは、その家を出た後なのです。

子供じゃなくなった今、実家に戻ると、幼い頃や思春期の記憶を辿りながら「ここやっぱすごいな」と思わざるを得ません。そして思いもよらぬことに、その異質な凄い家は、日本と深い因縁を持っていたのです。

 

今回は、オーストリアと日本という両国を結んでいる、ウイーンのとある建物を紹介します。その建物とは、ウイーン3区にある「Hundertwasserhaus=フンデルトヴァッサーハウス=百水家」です。

Photo by Nadja Sarwat

私が19年住んでた家が日本に関連していることを、日本に1年間高校留学をして帰国した後に知りました。建築家が6ヶ月日本で滞在していたことも、妻が日本人だったことも、4階が存在していないことも。

なぜ、建築家フリーデンスライヒ・フンデルトワッサーはそれほど日本に興味があったのか?そしてその興味から生まれたたインスピレーションは、彼の作品や建物がどのように反映しているのか?

その問いに以下の文章で答えていきたいと思います。

フンデルトヴァッサーとは?

1928年12月15日、エルンスト・シュトーヴァッサーエルサ・シュトーヴァッサーの息子として生まれ、フリドリヒ・シュトーヴァッサーと命名されました。2000年に亡くなるまで、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーという名前で、世界各地で有名かつ過激な画家・建築家・活動家として知られています。環境保全・霊性・人間の生き方がその主題となっています。大学で裸で出講する他に、「神聖なウンコ」という宣伝書を書いたり、講義中で壁に卵を投げたりしていました。人間を自然に寄せる、フンデルトヴァッサーの性能的な建築が時代よりもはるかに先に進んでいたのみならず、「窓の権利」、「木入居者」等々の画期的な概念を介して当時の当たり前だった建築の法則をひっくり返してしまった。その中でもかなり著名なのが「直線のない建物を作る」という思想です。

写真引用・Wikipedia

 

しかし、そこに至るまでの道が決して楽なものではありませんでした。

第二次世界大戦とユダヤ人迫害を生き抜き、かつてないスピードで変化していく美術界で同僚との論争に苦労し彼のいわば先走りすぎた思想に追いついてこれなかったマスコミと大衆に受け入れてもらわなかった彼の人生は、どれだけ辛かったでしょう。若い時に身近の人が彼の美術の才能に気付き、本人の志望であれば支援すると決心したお陰でウィーン美術アカデミーに入学しました。が、3ヶ月が経過したところで休学。偉人の傑作に触れるためにイタリアに旅立ちました。それだけでも彼の自由心と意志の強さが伝わってくると思います。その後の数年を大学に通わず、旅しながら直接に作品と芸術家と関わることで自分のアートのセンスを鍛えます。その過程でエゴン・シーレ、パウル・クレー、ワルター・カップマンなど、様々な画家の絵を知り、感化されます。その旅で経験したことによって、フンデルトヴァッサーの独特なスタイルが形を成していく。世界各地を渡る旅行をなくしては彼が画家にならなかったと言っても過言ではありません。

 

1960年、彼は日本で開催された第6回毎日国際美術展覧会に招待され、合計8ヶ月日本に滞在しました。やがて毎日賞を受賞、東京ギャラリーで大成功を得て、最終的に大学生の池和田ゆこをオーストリアに連れて帰って2回目の結婚を結ぶことになります。

しかし一番革新的なのが、日本で「フリードリヒ」という名前を訳すために「和」「豊」と漢字を当てて、ゆくゆくはドイツ語でも「フリードリヒ」ではなく、日本語の通訳に意味的に近い「フリーでンスライヒ=平和に豊富」という名前を使い始めたことです。

 

日本での滞在が、彼と日本の関係のきっかけではありません。以前にもマイランドで北斎と広重の美術を知って、天才的な名人芸」と「色彩の美しさ」と褒め讃えました。パリに住んでいる時にも日本人の美術家のグループに出会い、彼の思想に類似した考え方を抱いている者同士で仲良くなって、新しい世界を発見します。その中でも伊藤彬菅井汲との友情が非常に深く、コラボの作品の名前「525 Tränenspirale mit Kito im Eck=トレーネンシュピラーレミットキトイムエック」からわかります。

 

ホリスティックな世界観、エゴや主観からの離脱、集中や浄化、さらには孤独の有利な効果は、ヨーロッパやアメリカにおける消費文化、合理主義、疎外感の結果を癒すと彼は考えていました。当時の数多くの人のように、アメリカの消費文化が吹き込まれたヨーロッパの問題の解決をアジアの霊性に求めてしまいましたが、アジアのそういう面を本当に理解していたのでしょうか?

それとも、また当時の多くの人のように、誤解とロマン化、そして偏見の間を彷徨う幻想にかかっていたのだろうか。私にその答えはないのですが、少なくともアジア的な思想、またはアジア的だとみなされている思想に西洋の問題の解決を求めるというパターンは、新たな傾向ではないということが歴史を見るわかります。

『4』というシンボル

日本にいた経験が、後ほど彼の作品にどの様な影響を及んだのでしょう?

話をHundertwasserhaus」に戻すと、一番しっくりくるのが、4階がないということです。首を傾げる方もいっらしゃるかもしれませんが、よく考えてみると4という数字は日本で特別な意味を持っているのです。病院に4番の部屋がなかったりする場合もありますし、4という数字を避けている老人ホームも少なくないです。

Hundertwasserhaus」の場合でも、エレベータが直接に3階から5階に繋がっています。それは恐らく、フンデルトヴァッサーが日本の風習を知っていたからこそ、敢えてそのように作った可能性があります。

「Hundertwasserhaus」から徒歩で5分離れた場所に「Kunsthaus=クンストハウス=美術の家」というフンデルトヴァッサーの博物館があります。内側も彼自身の創作物となっています。思い切って入ると、玄関の向こうに位置している泉を逆方向に登っていることが目にかかります。それだけでは日本の気配はしませんが、2階に登ると妙なことに気付きます。名前の通りに、フンデルトヴァッサーの様々な絵画に「百水を示す判子が見えます。

また有名なエピソードとして残っているのは、フンデルトヴァッサーが風呂敷に惚れ込んで、自作デザインをしたことがあります。

他にも日本と彼との関連性を示すものがいくつかあります。日本国の名が取り上げられている作名も稀ではありませんが、Hundertwasserhaus」の「存在してない4階」と「Kunsthaus」にある絵画の「判子が最も目立っています。とはいえ、フンデルトヴァッサーの歴史を見ると、もう一つ「異質な」ものがあります。それは1960年に開催された日本のフェアの出品目録。そこにフンデルトヴァッサーが「Kanji-Text=漢字の文章」という文章を残しました。これには非常に興味深いものが記されています。内容の分析を図ってみると、今でも日本の社会に関する科学的な議論でよく出てくる話題だということが明らかになります。もう一つのファクターを加えると、話の面白味がさらに増加します。「Kanji-Text」の内容が少年漫画・アニメがよく扱っている主題とほぼ同じなのです。

 

そのあたりのことは次回、書いてみたいと思います。

お楽しみに!

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オーストリア出身の語学狂の大学生です。現に日本語とアラビア語を学んでいます。暇な時はできるだけ多くの芸術に触れようとしています。