BLOG 2020.10.06

言葉と文脈とメビウスの輪

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言葉を使った生業をしているせいか、言語については否応なく考えてしまう。

それはたとえば、母語である日本語や外国語学習など身近なことだったりもするし、ソシュールやチョムスキーといった言語学、そして「クレール語」や「言語のルーツ」を探るビッカートンのようなクソ面倒くさい理屈まで、文献をあさってはあれこれ考え、そして結局、答えには行き着かないモヤモヤした感覚に陥ったりするのだ。

その一方でわたしは、「言語的世界から、極力離れた感覚の中で生きていきたい」という強烈な思いを、常々抱いている。

人類が言葉なぞ必要としなかった世界…誤解を恐れず言えば、認知症や知的障害の患者が見ているような世界を、感じてみたい。

だからこそ、なんでも言葉で物事を分別しては理論武装する風潮には、違和感を覚えずにはいられないし、「言葉を明文化する」という今この文章を書いている行為自体にも、釈然としないものがある(メンドーな奴…)。

 

言語から距離を置く(あるいは逃避する)がために、わたしは音楽や美術といった、非言語的な要素が強い表現媒体に多く触れ、自分でも制作しているのかもしれない。

だから、小理屈が強調された作品には眉をひそめがち…というか超つまらなく感じてしまうので、そういう点には極力着眼しないように意識している。

 

……だがしかし!(重言)である。

いわゆる芸術作品には、文脈という要素が強く覇権を握っているのだ。

 

これは、諸刃の剣なのです。

 

一方では、作品の理解を手助けしてくれる。

たとえば、子供の落書きみたいな絵やグチャグチャな抽象画を見たとき。あるいは、イミフな現代音楽を聴いたとき。

それが「名作認定」されているものに初めて触れたとき、人は自分自身の美意識を疑うのだ。

「なぜ、こんなものが…?」と。

その判断自体は間違っていないし、むしろ正常なものだとわたしは思う。そしてそれを素直に受け入れる心が、変にカッコつけない善き生き方にも通ずる。

が、残念ながら人は言葉を持っている。

たとえば美術の場合、技法の刷新や、現状を後世に伝える情報媒体としての要素が、高く評価される。

それを言葉なしに感覚だけで掴める人は、極めて少ない。

「こういう歴史があって、これがあって、こうなって、こうなったから、これは高い評価を受けているのですよ」

と、知ったとき、人は初めて、「へぇ〜」となんとなく理解できるのだ。

そうやって理解できたら膝を打つ気分になって、とても気持ちが良い。

自分の美意識が高まって、頭が良くなったような気分にもなる。

 

だけども、である。

それは果たして、本質的な体験なのだろうか?

「文脈」という知的パズルをやっているに過ぎないのではないだろうか?

それって単に、言葉で自分の感覚をいじって偽っているだけなのでは?

そして何より、こういうことを考えてしまう時点で、言葉のトリックに引っかかっているだけでは…?

と、切りのないメビウスの輪状態になってしまうのです、少なくとも自分の場合は。

 

「こういうことを考えること自体が、無意識に好きなのでは?」

と、言われたりするが、そんなことはない。

考えるのなんて心底面倒なことだと思っているし、素直に、現実で起きていることは率直に受け入れたい。

……だけども、まあ、言葉の方が強くって、なかなか難しいのですよね。

 

冒頭に書いた通り、わたしは言語から遠く離れた、感覚に沿った世界を旅したい。

意味とか、存在意義とか、評価とか、そういうのは後回しにした、ある種の動物的で本能的で自然のまま。

寝たい時に寝て、起きたい時に起き、お腹が空いたら動物を食べる。

これと同じような感覚で、制作とも対峙したいな、と思う。

(「と思う」という時点で極度の言語化。それをそれをまたメタ認知している時点で言語化……以下無限ループ……)