BLOG 2020.06.22

フェティシズムと言葉と表現

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小学校低学年の頃、図工のクラス発表で、先生からこう言われた。

「この絵で工夫したことはなんですか?」

わたしは言葉に詰まった。言っている意味が、まるで分からなかった。

工夫って?

水彩絵の具を使って、適当に描き散らしただけだ。

そもそも、絵で表現していることを、なぜ言葉で説明しないといけないのか?

野暮である。

表現に対する言葉による過剰な自己言説への拒否感は、この頃に刷り込まれたのかもしれない。

 

ま、今となれば、あの先生の言っていた意図は、分からないでもない。

学校における図画工作は、言ってしまえば情操教育を絡めた、国語教育の延長だったのだ。

作文用紙に言葉を埋めるのではなく、絵の具を使って何かを表現し、それをまた言語化させる。

音楽もそうだ。

「この曲を聴いて(弾いて)感じたことはなんですか?」という謎の言語化への扇動。

「退屈だった」。そう一言、書き残した記憶がある。

フェティシズム(性癖)が形成されてこそ、表現の欲動が浮かび上がる

最近、撮りためた写真の整理をしている。

基本、トリミングやモノクロに加工するだけなのだが、パッパッと直感的に出来るのが良い。

音楽もそうだが、写真も楽に直感・本能的に作成できるのが、わたしの身に合っている。

コンセプトやらなんやら小難しいことなんて、いらない。

 

一方で、自分のその好み、たとえば撮ったモチーフについて語りたくなる欲求も、多少はある。

たとえばわたしが頻繁にモチーフとする被写体は、電柱、夕焼け、錆、ジャンクション、道路、廊下、横断歩道、工場…といったものだ。

これは、自分のフェティシズムを切り取っていることに他ならない。

現像の際にも、モノクロへのこだわりも多少はある。

もっとベタ塗りにしたいとか、粗を強調したとか。

「工夫したのはなんですか?」と今問われたら、そう答えるだろう。

ただ、「なぜそうしたか?」と根源的な理由まで訊かれたら、「単純に自分の好みだから」としか言いようがない。

 

フェティシズムというのは強烈だ。

言葉で理解・判断できるものではない。

その性癖を、誰が何と言おうと徹底的に磨き上げることこそ、表現への発露につながるのである。

 

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